俳句界より2

歳華集の頃の兜子

桑原三郎

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ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
轢死者の直前葡萄透きとおる
空井戸あり包(糸偏に崩)帯の鶏水色に
会うほどしずかに一匹の魚いる秋
戦どこかに深夜水飲む嬰児立つ
硝子器の白魚 水は過ぎゆけり

などなど、これが赤尾兜子だ!という句の数々を改めて体験するのだった。戦後盛んに作られた前衛俳句はこの頃少しずつ形を変えつつあり、兜子の作品も少しずつ変貌を遂げるときだったのであろうか。「歳華集」はそうした兜子の姿を鮮明に表した句集であったと言えよう。
 そして「歳華集」には

瀕死の白鳥古きアジアの菫など
機関車の底まで月明か 馬盥
花から雪へ砧うち合う境なし
菜の花の茎浅海に在るごとし 
帰り花鶴折るうちに折り殺す
神々いつより生肉嫌う桃の花
数々のものに離れて額の花
ぬれ髪のまま寝てゆめの通草かな
父の忌に鳥貝食べし寝像よし
空鬱々さくらは白く走るかな
大雷雨鬱王と会うあさの夢
葛掘れば荒宅まぼろしの中にあり

 などの魅力に満ちた佳句が並んでいる。ここで私は兜子の生涯の最高潮の作品にであったと思っている。それだけで幸せであった。これらの句についての内容や意味について一々言いたくはない。ただ、「鬱王と会うあさの夢」に魅力があり、「鳥貝食べし寝像」が面白いと思い、「生肉嫌う」神々と「桃の花」の関わりが好きであり、つまりは兜子という一つの文体に惹かれていたのだとと思う。
 昭和五十七年、兜子没後に発行された「赤尾兜子全句集」に寄せた高柳重信の文「赤尾兜子ノート」より一部引用する。

 端的に言えば、赤尾兜子は実に個性的な俳人であった。まず第一に、その人間の肌ざわりのようなものが、他の同世代の俳人たちと著しく違っていた。躁と鬱との両極を激しく揺れ動く特異な性格もさることながら、その俳句の文体が際立って異質であった。それは嘗て塚本邦雄がすこし皮肉な口ぶりで「非愛しょう(言偏に足偏のない踊)性」に富むと指摘したものであるが、赤尾兜子が前衛の旗手として輝いた日々も、また伝統回帰を意図したと言われる晩年の日々も、その不思議な文体は、ほとんど変わることがなかった。率直に言えば、きわめてぎごちない文体ではあるが、しかし、それこそが赤尾兜子の俳句の魅力の根幹をなすものであった。・・・略・・・

 そのぎごちない文体に惹かれた私であったとつくづく思うものである。
 昭和五十三年十一月、新宿・東京大飯店で私の第一句集「春乱(正しくは乱の旧字体)の出版記