生水器我が家へ 
 
 
隣にある工場から戻り、いつものように台所へ向かった。すると話し声がし、ドアを開けると、初めて見かけた人とマリヤ(妻で純然たる日本人)が会話をしていました。そしていつもと違う景色がそこにありました。
流し台の一段高いところにステンレス製の生水器が取り付けられ、妻はその使い方の説明を受けていたのでした。
 妻は、私に気付くと開口一番
「母のお金で付けたのだから良いでしょ」。
 断固たる言葉を発しました。妻は、その水を変える機械、つまり生水器を買うことを私に相談すると反対されると確信していて、その時92歳だった母親に、「身体に良い水」、「環境に良い水」、「仕事にもなるのよ」と伝え、母がいざと言う時のために用意していた、そのお金を使ったということでした。
 そういう訳で「・・・いいでしょ」の意味はこのことについては一切、文句を言うなとの宣言でした。
 実にそのとおりで、私は水について全く興味も知識もなく、意識して水を飲むとか、まして水に良し悪しがあるなんて、想像もしませんでした。ただなんとなく、いつの日からか水道水は、直に飲みたくないな、と思っている程度でした。我が家を新築したときも、業者の方に勧められるまま、シンクタンク用(流し台の下)のものを取り付けました。ですから、もし、妻が生水器を取り付けることを私に相談していたら、即座に「いらない」と答えたと思います。
 私がその場を離れ、リビングに歩いてゆくと、取り付けに来られた方は、私の理解を促すために、少し大きめの声で、私に聞こえるように「食べ物は全て水につける」、「食器洗剤はなるべく使わない」、「水のエネルギー等」について云われていたように思います。無関心だった私は、何の反応を示す事もありませんでした。
 そのような事情で、自然回帰水生水器なるものが我が家に取り付けられたのは、2003年7月のことでした。

    
仕事・結婚・工場・新築・セミコンサート

 
私は電気制御盤を制作することで生計を立てています。昭和62年3月31日、私は勤めていた会社を辞めてしまい、ふと、なぜかわかりませんが、以前よりお世話になっていた堀徹さん、(妻の兄)を尋ねてみようと思いました。事情を話すとすぐさま、「明日から一緒にやろう」と言ってくれました。堀さんはこの年の初めから、独立し一人で制御盤制作の仕事をしていました。もちろん一人で立派にこなしている方も、いらっしゃるのではありますが、制御盤制作の仕事は一人ではとても大変なのです。たとえば納期の問題、受注してから納めるまでの制作期間も短いですし、重量、大きさ等、一人ではとても手に負えないものを扱わなくてはなりません。そんな理由で堀さんは誰か、一緒にできる人はいないかと、探しているところだったようです。
 以前より、私のことを気が合いそうだと感じていて、経験も七・八年あることを知っていましたので、退職してきた事を聞き、すぐに「一緒にやろう」そして、驚きましたがなんと「儲けは折半にしよう」とのことでした。堀氏は当時、仕事のある部分を、設計の方々から相談されるほどの、知識と経験の持ち主でした。
 もっとも共同経営といっても、会社組織ではなく、売上から家賃を払い、月々の材料費、給食代金等支払いを済ませさらに、借入金(開業時の資金)を返済し残ったものを二人で分けるというだけのものでした。一部、借入金には金利50数パーセントのいわゆるサラ金からのもあり、どうしてこんな無理なことをしたのかと、頭をかしげる事もありましたが、とにかく年ぐらいで全て返済も終わり、2年の月日が過ぎようとしている頃、私達の仕事のことを叔父に相談したところ、御自分の所有している土地に15坪のプレハブの工場を建てていただける事となりました。そして移転した時にやはり叔父が興され、休眠中だった「株式会社」を譲り受け、「株式会社ユーデン」という名称の法人にすることができました。そして、引き続き代表取締役をお願いしております。
 移転する少し前に、私の妻であるマリヤが子どもを連れて離婚をし、兄である共同経営者の堀さんを頼り、ここでの新しい生活を始め、一緒に働いていました。そしてよくある偶然のできごと、のように私は思うのですが、結婚することとなりました。つまり私達は二人しかいない職場での、職場結婚ということです。もう一人は義兄なのですから。私が結婚した時、ベルリンの壁が破壊された、世界の激動時だったことを鮮明に記憶しています。
 それから三年後バブル期ということもあり、すべて順調に進み40坪の工場を叔父に建ていただくこととなり、平成4年、現在の工場に移転することができました。
 翌年には叔父に土地を借り、我が家を新築し今、ご多分に漏れず住宅ローンの返済に苦しんでいます。
 我が家を建てる数年前に亡くなった妻の父親は、ピアノを教えて老後の生活を、生き生きと過ごしておられ、使用していたピアノはセミコンサートというものでした。マリヤの母親と同居することとなり、そのピアノを形見として、新築する我が家に置いておくとの結論に達し、それにはピアノだけで四畳半ぐらいの空間が要求され、結局、我が家のリビングは21畳となりました。今はそのピアノは使って頂ける方がいることを、調律士の先生からお聞きし、お譲りしてリビングにはありません。
 二年前、この雑記を書いている頃、残してあるアップライトピアノの前で96歳の母がシューベルトの「子守唄」を奏でていました。今年、98歳を過ぎ、ベートーベンの「月光」を、先生が上手にアレンジされたのか、実にゆっくりとしたテンポで弾いています。
 「今日は十時から出かけますから、鍵を持って行って」と言われました。そうです、今日は(2009年9月24日)月に一度の、ピアノレッスンの日です。レッスン会場である先生のご自宅は、川向うの歩いて、私たちの足で五分ぐらいでしょうか? 母の足では十分はかかりますね。暑い時、寒い時は車で送り迎えをしますが春秋、すがすがしい日にはもちろん歩いて行きます。ピアノの先生には「来ていただけるだけでいいんですよ」とレッスン料は受け取っていただけません。
 月に一度の短い時間ではありますが、ピアノに向かい時々の練習など、鍵盤との調和を模索する、このことがどんなに健康に役立っているか想像できません。後ほどお知らせいたしますが、98歳の母は毎日4・5時間「型染め」という趣味と実益を兼ねた(教えて頂きたいという人が現れたため)作業に没頭しています。そこから離れる、まったく違った脳の働きをさせてくれるピアノの時間のことです。
 こう記している背後で、穏やかなピアノの音色が流れてきました。レッスン前の最後の自宅での練習が始まりました。和音とメロディ、秋の虫の音も聞こえてまいります。明治生まれの母の人生は、何と豊かな時空を演出されているのでしょうか。

  そのリビングに時々十人とか十五人の人が集まり、なにやら楽しそうにしていることがありました。男の人は誰もいません。恐る恐る覗いてみると、テーブルの上にある飲み物は水だけです。昼食を我が家で食べる習慣の私は、そのような場面に出会うと挨拶もそこそこに弁当を持ち、作られている味噌汁、箸を二階に運び、食べ終わると、こそこそと、また工場へ戻るのでした。
 妻のやっていることが生水器を広めている事、それがネットワークビジネスだということを知っていました。なんの根拠もないのですが、なんとなく嫌な感じを持っていました。
 私は中学二年の時に転校し、以来、友人も少なく、なるべく他人とのかかわりを持たないように、生きていましたので、多くの人、まして女性の輪というものは、私にとって、脅威そのものでした。なるべく顔を合わさないように、逃げまわっていた様に思います。そして私の生き方には、それ以外の選択肢はありませんでした。


   ダラスからニューヨーク

 一緒に暮らすようになって8年、高校を卒業した洋子が、アメリカの大学へ
行きたいと言い、テキサス大学アーリントン校に入ることになりました。しかし
語学力が足りず、トーフルに合格し、正式に学生になったのは翌年1月でし
た。 その年の5月、ニューヨークで洋子と友人wさん、私と妻の四人で合い、
数日後、洋子たちが暮らし学んでいるテキサスへ移動しました。そこには実
にさわやかな青空が広がっていたことを覚えています。
 彼女が行った当初は寮そのもので、二段ベッド、上には見知らぬ異国の人
、という生活だったようですが、約1年が過ぎ、私たちが訪ねたときには、や
はり寮ではあるのですが、4人それぞれが狭いながらも部屋を持ち(4畳ぐら
い)、それに通じている8畳ぐらいのだんらんの場所をもった、アパートらしき
所で暮らしていました。台湾の人、アフリカの人、アメリカ人、それに洋子で
した。
 私達夫婦は、歩いてその建物から5分程の所にあるモーテル(日本ではビ
ジネス用の貸し部屋ですか)に泊まりました。 洋子達の暮らしている、その
民間アパートは、大学の敷地の中にあり、学生は安全な生活をフェンスに
守られているようです
?と言うのは余談ですが、外国人とは会話ができない私が、カードを持ち、
一人でそのモーターホテルへ帰ろうとすると、フェンスはロックされていませ
んでした。私は当然のことながら、扉を押し、開き、外へ出て、扉を離しまし
た。すると当り前の如く、扉はきちんと閉まりました。すると突然、中にいた、
大きな白人さんが私に向かってなにやら叫び始めました。その声は全く理解
不能な音でした。怖いので早々にモーテルに逃げ帰り、部屋の鍵をカチャ。
 後でマリヤに聞くと、カードを部屋に忘れた学生が、仲間に開けてもらい、
棒のようなものを挟んでおいて、カード無しで出入りするのだそうで、偶然に
も私がそれに気付かず、ロックをしてしまったということでした。言葉が通じな
いための恐怖を経験しました。白人の顔が赤色矮星(こんな言葉は聞いたこ
と無いと思いますが)に変身したように感じました。
 初めてのテキサスでは、洋子の友人に、車で1時間程かかるダラスへ案内
していただき、ケネディ暗殺の現場を見、アメリカ開拓時代を再現している町
並みは、子どもの頃、映画、テレビで見た、当時のほこりの匂いに包まれて
いました。
 3日間の滞在でしたが、私の結論は、多くの若者がその場所で学び、立派
に成長し卒業していくのですから、たいしたものだと思うのですが、町へ行く
のに車で1時間程かかること、そして車を持てないこと、学ぶためにだけのそ
こでの生活は、娘にはとても続かないだろうということでした。
 娘がその年の暮れ、クリスマス休暇で帰国したとき、ニューヨークの大学に
転校する手続きを、事務の方と電話で話しているのを耳にすることとなります。
やっぱりと思うと同時に、英語での会話に驚かされました。日本を離れて約1
年と半年、洋子が20歳の時でした。

 
   
急性アルコール中毒

 私は20歳の頃、酒の飲みすぎをはじめ、不規則なだらしのない生活がもとで、急性アルコール中毒をおこし、2週間入院しました。
 ある日仕事をしていると急に動悸を感じ、脈拍がドンドン早くなり、それとともに倒れてしまうのではないか、との不安に襲われ、その思いがまた血圧を上げ、いっそう不安はつのる、そして不安が世間体にまさり、救急車の助けをかりて病院に運ばれました。
 その時の医師と家族との会話は、耳に残っています。私の父親の死因が狭心症によるもので、これ以上脈拍、血圧が上がると・・・とのやりとりでした。2週間後、退院することができたのですが「不安神経症」・「パニック症候群」が後遺症として残りました。症状は多くの人が集まる場所、映画館・野球場・電車・航空機等には入れませんし、乗れませんでした。(今振り返ってみると、気分が悪くなった時に、逃げ出す場所がないことの不安を、予想していたように思います)特に高速道路の運転はできなくなりました。高速以外のことは数年で、さほど感じなくなりました。しかし高速道路、トンネルについては助手席にいても、気を失うのではないかと不安を覚えるほどでした。18歳で免許を取得しポンコツを買い、少々の事故もありましたが、普通の若者のように首都高はもとより東名・中央高速道路の運転の経験もあります。しかし、あの日以来30年間、高速道路を運転をすることはできませんでした。ほんの数秒以外は。
 常に自分に対し、自動車の運転で一番安全なのは高速道路なんだ、と言い聞かせながら、何度も、何度も試みたのも事実です。ICに近づくと心拍が早まり、やっぱり止そう、今日は大丈夫そうだと思い、通行券を取り二〇メートルも走ると脂汗が滲んでくる、その現象の繰り返しでした。条件反射になっていたようです。
 私は電気制御盤を製作する仕事をしていますので盤を納めると、ほとんどの場合、古い既存のものとの関連や、納めた製品そのものの変更があります。北は北海道釧路から、南は九州熊本、一度は中華人民共和国、広州まで行きました。
 しかし高速道路の運転はだめでした。現地改造の仕事が決まると場所を聞きます。本当に近いところ以外は、全て二人で行くことにします。一緒に働いているEさんと行きます。一人分の売上を二人で分けることもしばしばありました。
 Eさんは小学校の時、クラスは違うのですが、学校を代表するソフトボールチームの、ピッチャーで、私はキャッチャーでした。その時以来の付き合いで、初めて電気の仕事を教えてくれた人でもあり、知り合って44年にもなります。現地へ行くとき高速は彼が運転し、高速道路を降りると私に代わります。ある年など半年の間、土曜、日曜と毎週現地へ行った事もありました。私の状態を理解していた彼は、どういう状態でも、文句一つ言わずに運転をしてくれました。彼には本当に感謝しています。彼のおかげで今の私の生活があります。また、私が幾度となく、高速道路の運転に挑戦していた姿を知っているのも彼です。
 
   
成田での再開
 
 2005年6月、ニュヨークから洋子が、日本で休みを過ごすために帰国しました。数年前に愛犬「さくら」(コーギー)を飼い始め、空港へはその「さくら」を連れ車で迎えに行くことになっていました。マリヤの運転で圏央道、関越、外環、そして常磐道の柏で高速道路を下り運転を私に代わり、一般道で成田へというルートです。「さくら」のために三芳SAでおっしこ休憩、千葉の大きな公園、手賀沼では食事を与え散歩をします。帰りも同じようなわけですから、私たちにとって1日がかりの大イベントです。愛犬「さくら」にとっては、迷惑なことだとわかった上でのことなのですが、「洋子」と「さくら」の久しぶりの再会のようすが嬉しくて一緒に連れて行きます。
 空港の駐車場に着くと、私と「さくら」は日陰に車を止め二人の来るのを待ちます。マリヤが一人空港の建物に入り、数ヶ月ぶりに合う母娘、お互いの姿を確認し微笑みます。そして大きな荷物を二人で分け合って持ち,キャスターの音をさせながら車に近寄ってきます。半年近くの時間の経過をものともせずに、「さくら」は洋子に気が付くと吠え始めます、ドアーを開け、裏返った訳の解からない声を発し撫で回す洋子、飛び上がり顔をぺろぺろ舐めまわす「さくら」、この短い1・2分の再会の瞬間が、私達にとって心に大きな安らぎを与えてくれます。(ちなみに「さくら」は人見知りがはげしい犬で、ほとんど家族以外の人に近寄る事はしません)
 
   
突然の出来事

 私は空港駐車場から、いつものように一般道で帰るつもりだったのですが、どこでどう間違えたのか、気が付くと高速道路を走っていました。
 「あ、なんでもない」
 「高速だよな」
 「どうしたんだろう」
 唖然として私が言うと、マリヤはこう言ったのです。
 「水のおかげよ」
 「私が取り入れた水があなたを変えたのよ」
 私と洋子は「そんなこと、ある分けないじゃない」と笑っていました
 しかし、そのとき以来、高速の運転は私の仕事となり、翌月7月、東北道を利用して岩手県北上市へ私の運転で改造の仕事をしてきました。片道約600キロメートルあります。
 また「さくら」に子どもを生ませる事になり、さくらの生まれ故郷で浜松にある、「小松ファーム」さんにお願いすることにしました。運転は勿論私で、往復10時間ほどかかったのを覚えています。
 その時の子犬たちが成長して、一番小さかった、お茶目な女の子は「小梅」と名づけられ、東村山のTさんにお世話になり、ちょっと大きな雄は、お孫さんたちから名前を公募して、その中からご主人が選んだというグランプリの「グラン」と呼ばれ、所沢のTAさんに可愛がられています。そして三番目の少々ひ弱な子犬は「さくら」と同様、洋子からフランスの女の子に多い名前なのだそうですが「ベアトリス」という名前を付けられ、「さくら」と共に我が家で暮らし、時々じゃれあっています。もう二歳半になるのですけれどもいまだに雷、花火の音に震えています。
 成田空港の出来事の後も、私は以前のように、水でこのように変わるなら「医者なんか要らない」、つまり変化があったのは事実なのですが、水がその原因だとはどうしても思えませんでした。
 半年が過ぎ12月になっていました。リビングにある雑然としたサイドテーブルの上に、深い海と抜けるような青空を背景にした表紙の一冊の本が置かれ、「3?水飲み健康法」と題されていました。ここにも妻の策略があったように思いますが、それを手に取りページをめくっていくうちに、「水と人間の身体」とのかかわり、生きていくうえで水は実に大切なこと、妻やその仲間達が扱っている水がどのように作られ、どう身体に作用するのかを理解することができました。私が30数年という長い間、苦しんでいた事が、どうして解決したのか、その原因は元気な水を身体に入れたことにより、生命維持をつかさどる、自律神経のバランスが取り戻せたからだと確信するのには、49ページまでで充分でした。「水」・「生体恒常作用」・「視床下部」等につきましては是非、その本をお読みになって頂きたいと思います。
 私が妻に水が作用してこうなったんだ、と言うと、この時とばかり母(当時92歳)の健康診断のデータを持ち出してきました。
 「ねえ、見てみて、凄いでしょ」
 それは掛かりつけの医院の検査報告書で、水を取り付ける前のデータ2003年2月には「H」の印が三つあり、9月のものは「H」は一つもありません、7月に取り付けたのですから、僅か三か月ほどで全て正常の範囲に入った事になります。「H」のところは脂質系のところでして、本人が食事に気をつけた為かもしれませんが、4年たった、今年2007年6月のデータにも「H」「L」はひとつもありません。
 
   
明治生まれの型染め先生

 ここで98歳の母(マリヤの母)を紹介したいと思います。昔から60の手習いという言葉を聴きますが彼女はなんと78歳で型染め(正しくは型染めの技術を使った、独自の絵画と私は思っていますが)を習い、今、98歳で教えています。
 78歳の時、教会恒例の行事になっている、バザーへ出品するのが目的で協会員が様々な作品を作り、持ち寄っていました。彼女はその頃、趣味で人形を作っていましたが、ある方が展示されていた「型染め」の作品を見ているうちにその当時学んでいた、水墨画のとの組み合わせに、何か面白いものが出きるのでは?と感じたそうです。そして一度だけ基本を教えていただいたのが始まりでした。当時ご主人もお元気で、本業のピアノの他、絵画、彫刻が好きで、型染めについてのアドバイスもたくさんしてくれたと、楽しそうに話します。以来20年を経過し、我が家のリビングで、教会の多目的ホールで、数年前には、小平の知り合いのいるケアハウスでも、教え、覚えた方々が数名、今でも楽しく続けられていらっしゃいます。教会に俳句、習字を提出しています。日ごろの生活でも炊事、洗濯(干すこと)食器洗いなど、動作こそゆっくりですが、はるかに若い方々に負けない生活ぶりです。最近も私がサッカーを見ていますと一緒にいた彼女は、あれはどうして旗を上げるのと聞きます、オフサイドのことなのですが説明に困りました。サッカーの基本で初歩的なルールのですが説明は難しいものですね。ともかく、あらゆることを知りたい、知ろうという気持ちが満ち溢れている人です。その母も水を飲む以前とその後では、実に様変わりな健康状態です。

   
最後の心臓発作

 ある日私が、隣の狭山市で仕事をしていましたところ、妻から電話で
 「母の具合が悪いようなのですぐに帰って」
 とのこと、20分ぐらいだったと思いますが帰宅すると、心臓に動悸を感じいつもなら、医師から頂いているニトロを飲むと治まるのだが、今回は良くならないので早く病院に行きたいと言います。すぐに車に乗せ、病院へ向かいました。15分ほどで着き、妻が連絡していて、すぐに診て頂くことができましたが、その時にはすでに発作は治まり医師に「もう大丈夫です。」と答えていました。それでも医師が大事をとって入院を勧めましたが、絶対に入院はしません、と言ってさっさと帰り支度をして診察室を後にするのでした。入院恐怖症とでも云うのか、この年齢になっていったん入院をして、ゆったりした生活を味わってしまうと、足腰を弱めてしまうのではないか?そして、一度入院するとそのままになってしまうとの思いもあるようで、絶対入院はしないと言っています。
 その後すぐに生水器を取り入れました。以来、7年を経過しますが発作は一度も起きていません。

   
日常生活 「朝」

 母の一日は目が覚め、テレビのスッチを入れるところから始まります。ニュース、天気予報を見、聴きます。前にもお話したかもしれませんが難聴で、「よく会話ができますね、よほど感が良いのでしょう」と補聴器屋さんに言われるくらいです。
 ゆっくりと着替えドアを開け、部屋を出ると、スリッパのこすれる音に気がついている犬達が待っています、「さくら」はお腹をなでてとゴロンと仰向けになります。「ベアトリス」はピョンと跳ね両手を母の腰にあてる「さくら」のお腹をなでている母の顔を、ペロペロと嘗め回します。マリヤに対するのと同じ、我が家の朝の犬達の挨拶です。 そしてスースーとスリッパの音をさせながら台所へ向かいます。犬達の朝食の用意です。さくら低カロリイ40グラム、ベアッチ成犬用35グラムと小さな計量器で計り、陶器に移し、水に浸しておきます。リビングを横断し、と言っても20歩ぐらいですが台所と一番遠いところ、一番涼しいところに果物(農薬、防腐剤をとるために野菜、果物全て水に一度漬けてあります)が置いてあります。もちろん季節のものだけです。この夏は宮崎の友人から頂いたマンゴーと、グレープフルーツ、(今年、2009年は、お友達の娘さん御夫妻が、千葉で果樹園を経営なさっているとかで、ブドウ・梨など沢山の種類のものをいただくことができました)今では切ったり剥いたり、母の担当になっています。それは母自身が、毎日食べたい人なので、自然にそうなりました。
 私達が犬の散歩から帰り、足を洗うと母が餌を与えます。 2年ほど前になりますが、こんな時もありました。「さくら」は「お座り、待て、お手、よし」で済むのですが、ベアッチは手間がかかります。ドライフードだけでは食べてくれないのです。少量クッキー風のおやつをふり掛けたり、玄米を混ぜたりして食べさせていたのですが、ドライフードと共に獣医師が食べさせるように薦める、茹でたキャベツ(大好物)を混ぜて与えるようになりました。はじめのうちはキャベツの匂いを探し、食べているのですが、いつのまにかドライフードも食べ物になるようです。10分ぐらい掛かりますが母は椅子に腰掛け、じっと見ています。それは「さくら」がとても食欲旺盛で「ベアトリス」が離れた隙に食べてしまわないか、監視の意味もあるのですが、母にとって大切なひと時のように思います。
 母の朝食はパン少々と野菜サラダ、コーヒー杯程度ですが、私が毎朝、ご飯ですので彼女もそのおかずの納豆、焼き魚も食べていますし、味噌汁も飲みます。そしていよいよ自分で 用意したデザートです、子どもである妻のマリヤに時々「果物が無くなるよ」と催促をしていますし、時折、「どうしてこういうものを買ってきたの?」といっているマリヤの声も耳にします。 とにかく果物は欠かせません。「あー美味しかった」、そう言ってテーブルを離れます。
 食器を流しに運び、洗い物が始まります。一般的に風呂場で体を洗うときに使われる、小さなイスが、我が家の流し台の近くにあります。それは家を建てるとき、少し足が悪い母と同居することが決まっていましたので、全て段差のないバリアフリーで作りましたが、まさか、ほとんどの洗い物をその母がするようになるとは想定していませんでした。今は、システムキッチン全体を、15五センチぐらい低くカットしておけば良かったと思っています。マリヤ自身のために、低くしようかという話も出ていたので、とても残念でなりません。
 その風呂用のイスにのり、じゃぶじゃぶと洗い始めます。我が家の水は環境を汚染し、身体にもよくない食器洗剤を使う必要はありませんので、水だけでさっぱりと綺麗になりますし、何より母のつるつるしている手を、見ていただきたいと思います。食器洗浄器は最初から付いているのですが、洗い終えた物の水切りのためだけに使っています。食器が並び、引き出されている食洗機の周りの床に水が飛び散っています、それは雑巾で、足を使ってふき取ります、行儀が悪いと思われるでしょうが、膝を曲げるのが苦手なこと、98歳ということでお許し願います。
 次にその頃、済んでいる洗濯物が待っています。ことわっておきますが、マリヤがナマケモノで自分の母にやらせている、というわけではありません。母に対して、できることはどんどんやってもらうこと、仕事を取り上げないことが、本人のためになると、常、日頃からの持論で、日常の雑事を全て残して、よく出かけて行きます。
 ちなみに毎日の掃除機を掛けること、週一回程度の雑巾掛けは私の担当になっています。もっとも、掃除機を毎日私が使う事には訳があります。インターネットで注文し宅配便で「さくら」がやって来たのは八年前、私は出張でどこかのホテルから携帯電話で生後40日の「さくら」の子猫のような鳴き声を聞いたのを覚えています。
 数ヶ月たった頃より、私が朝食を終え椅子から立ち上がると、毎日の約束事「お掃除タイム」となりました。
 「さくら」は私の目を見て「さあ、始めましょう」と催促をします。掃除機を置いている階段下の収納庫に向かうと、先回りをしてドアの前で吠え始めます。しかし、その声はとてもうるさく、皆さんに嫌がられていますので、当たり前ですが、家族のもの以外の方のいる状況では決して始めません。
 掃除機の音が鳴り始まるとまず、ノズルの先の吸引部に攻撃を仕掛け、数秒後にオモチャにしている、15センチほどのロープを持ってきます。それを投げるとすぐにまた咥えて戻ってきます。まるでサッカーのゴールキーパーのように、投げる方向を予想しています。ですから「さくら」の防御(前足、口)を避けて遠くへ投げるのはちょっとした技術が要ります。これ繰り返します、掃除が終わるまで、ワンワンと吠えながら続けます。
を ほとんど毎朝、2匹を連れ近くの公園でバナナのおもちゃ(数ヶ月前にバナナをなくしてしまい、今は骨の形をしたものに変えました)を投げて遊ばせる事と共に、それは今でも毎日、さくらの日課です。一方、「ベアッチ」は朝の公園への散歩のときは、「さくら」より早く動き、走り、咥え、戻ってくるという遊びが大好きなのですが、家ではその遊びはしません。外に出るとはしゃぐのですが、家の中いるときはソファーや下駄箱の下でのんびり休んでいます。「動のさくら」「静のベアトリス」年齢には関係ないようです。
 洗いあがった洗濯物を容器に移し、スースーと、数年前に、私が仕事で余った鉄のアングルの廃材を利用して作った、手すりのない畳2枚より少し広い、ベランダ風のところ(以前は、洗濯物を干すためにブロックを組み合わせて階段を作り、外へ出るようにしていましたが、危ないということで簡易物干しを使い、下には降りないことにしました。)へ持ってゆき、容器を置きます。あの風呂のイスも運びます。スースーと部屋へ戻り、もう一つ大事なものを用意します。帽子です。つばの広い麦わら帽で陽射しの強い春から夏、秋まで欠かすことはできません。物干しはスタンド式で周囲に腕が16本ずつ上下2段に開きます。そして最上部に洗濯バサミがやはり4方に4つずつ十六個ぶら下がっているものです。いよいよ作業開始、パタパタとはたきながらタオルを、皺を伸ばしながら、Tシャツや下着を干します。
 最後に過酷な(そうは思いませんか)作業がまっています。ハンカチ、靴下など小さいものは、あのイスに載っての干し物で、母にとっては、小さい身体をいっぱいに伸ばしての作業となります。マリヤは母にとって究極の健康法だと言って笑っていますし、本人も大変だとか、疲れたとか一切口にしません。私は毎日淡々と、日々の約束事をこなしてゆく母の姿に接し、面白い親子がいるものだと、いつも感心しています。  ハンガーに掛けて干すものはリビングの窓から直接、昔からのステンレスの竿に届きます。爽やかな季節には外に出て干しますし、散歩がてら家の周りを歩いています。また、燃えるゴミの日には、時々、今日は軽いからと、五十メートルほどのところにある集積所まで、綺麗に手入れをされた、お隣の草花を拝見させて頂きながらのんびりと持っていってくれます。それらが終わるとやっと休息の時、なのですが、休めるのは動き続けていた身体だけで、脳は休める事はしません。 我が家の新聞はスポーツ新聞と一般紙なのですが、必ず両方を持って部屋に戻ります。ベッドに腰掛け、読み始めます。日々の社会の動きや芸能界の噂話、私が巨人ファンだと知っていて、この頃、巨人駄目ね(三年ほど前の話です)、スポーツのことも話題にします。クロスワードパズルも大好きで、新聞の土曜B版や、次男が時々持ってくる週刊誌に、鉛筆で書き込み、文字どおり頭の体操になると言っています。でも数字のものは「ややこしいからやらないの」と言い、挑戦の結果、歯が立たないという結論のようです。
 若い頃は「風と共にさりぬ」、「戦場に架ける橋」など洋物の映画が好きだったのですが、彼女の中では最近(九十八歳の最近・昔の基準は難しいものがありますが)の映画は荒っぽいものが多くて見たくなくなったと言い、かわりに時代劇が面白くなり、テレビの番組欄は良く確認していて、ほとんど毎日放映されている時代劇を、来る日も、来る日も何時からあれがあるから先にお風呂に入る、今日は遅い時間だから大丈夫、マリヤも気にしていて「早くしないとあの時代劇が始まっちゃうよ」とよく言っています。また、「水戸黄門があるから今日は、後かたずけ、お願いね」なんと九十八歳の日常の言葉です。一・二時間、新聞、書物を読んで(もちろん新聞が顔を覆っていることも、たまに見かけます)いるともう昼食です。

   
日常生活「昼」

 まず犬達の食事を計ります。さくら達の昼の散歩は、オシッコをさせるだけなのですが、コーギーは成長すると中型犬で体重も十キロ前後あり、小さい頃、わずかな期間、母もリードを引いて散歩ができたのですが、あっという間に大きくななってしまい、母には犬との散歩という楽しみはなくなりました。私は昼の時報を聞くとすぐに、給食弁当を手に自宅に戻り、「さくら」達のオシッコに行きます。短いと二分ぐらい、長くて十分程です。
 食卓テーブルには三人分の箸が、それぞれの決まったところに、箸置きと共に並べられています、彼女には箸置きへのこだわりがあり、自分が使うものは「吊り篭に流し添え」、という七十七歳のときに池坊の先生より、お祝いとして膳など一式、頂いたものの一つで、白磁の素材で六角形の外枠に金色を施し、右側の両面にさらに半分ほど隠れるように重なっています、両側の尖ったところは上にゆるく反っています、うっすらと青い籠、銀色の吊り金具、そこに鮮やかな黄緑で小さな葉をあしらい、薄く茶色の茎が見てとれます、更に薄く、ピンクと白を混ぜた色の萩の花がつり金具に向かって曲線を描いています。もう一輪隠れている吊り篭から少し大きな同じ色の葉とピンクの花が低く、やや上方に向かって咲いています。
 私たちに用意してくれるものはその都度、違うのですが母自身が作った、淡い土色にホワイトチョコレートを流したような、おしゃれな三十年前の物もあります。私自身、マリヤも箸はテーブル直で良いと思っているのですが、彼女は必ずセットします。あるところではとてもこだわります。
 彼女の昼食はたいがい残り物です。犬達みんなの食事が済むと、ようやく二十年来の生きがいである型染めの仕事に取り掛かります。


   
部屋・出会い・景色

 彼女の部屋は玄関を入り、奥にある下駄箱を支えに「よいっしょ」(そう母の声はきこえます)と上がるとすぐ右側にあり、入り口に突っ張り棒を使い、自慢の暖簾が下がっています。大人の手のひら大の葡萄が蔓、葉と共に描かれ、左り上、目の高さぐらいのとこにひと房、対角右下肘の辺りにもうひと房、作品は綺麗なのですが、季節を無視して架けられています。
 ドアを開けるとまず染料の匂いが漂い、環境ホルモンの危険を訴えている私としては、とても心配なのですが、特に換気には気をつけるよう注意しています。ドアの裏側には寒い時期、足を暖めるパットが隠れています。いっぱいに開けたドアに並んでガラス戸の中に古布や、洋裁用の生地があふれている白い棚、その下は胸の高さまで引き戸になっていて、何が隠されているのかわかりません。次にもう一つ白い整理箪笥、その上にテレビがあり、更にその隣に茶色の箪笥、そこには戦前、戦中、戦後四男一女をもうけ、五十数年という月日を共に暮らした、つれあいの遺影が佇んでいます。
 七十数年前の話を昨晩、聞きました、最近出合ったRさん(彼女については後程お話いたします)という方が我が家にやってきまして一緒に食事をし、母に「何処でお生まれになったのですか?」と尋ねたのがきっかけだったと思うのですが、旦那さんであった堀拓也氏との出会いの話しになりました。堀氏は若い頃ピアノの演奏に情熱を傾け、未来に大きな夢を抱いて生きていましたが、あるとき、ポーランドの作曲家パデルスキーのメヌエットのある一音、たった一音が出せない自分に絶望し、音楽を捨てる覚悟で南方の当時日本が委任統治していた、パラオに自己逃避します。そこの暮らしは、食べるものは、果物、魚など、手を伸ばせばそこにあるという実に、自由気ままなものだったようです、でもやはり音楽は捨てきれず、日本領事の奥様が開かれたパーティなどいろいろな場面で演奏をしていました。そんな堀氏が帰国した後、尼崎のある教会で音楽会が開催され、友人に誘われて朝子さん(母)もそこに参加し、堀氏に出会う事になりました。帰り道が同じ方向というのは偶然なのでしょうか。七十数年前、拓也氏三十歳、朝子さん二十五歳の春の日でした。
 拓也氏から見て左側は引き戸がありガラス越しに、彼女たちの好きな、「さぎ草」・「初雪かずら」など草花、山野草が三段にわたり、こちらを向いています。右に、セミダブルのベッドがあり、さらにベッドに寄せて背の低いキャビネット、そこに布製の手紙挿しが掛けられています。キャスターで動く型染めの材料だけのワゴンもあります、何時でもリビングに移動できるようにするためです。ベッドの足元にも棚、くっついて透明のケースが重ねられ、型染めの作品やら説明不能なもの(私には)が溢れています。最後に作業用テーブルが真ん中にあり、イスとしてベッドに腰掛け仕事が始まると、箪笥、テーブル、彼女、ベッドと、足の短いコーギーだけが通り抜けられるところとなります。そうもうひとつ、引き戸式の押入れの前に、小さめのアイロン台もありました。作品の仕上げに使いますので、いつもでも使えるよう広げてあります。また我が家のアイロンは、ほとんど母が掛けます。 紹介しましたように母の六畳の洋間は移動範囲、僅か畳二枚分です。作業テーブルの上は色を溶くための小皿十二枚、摺込刷毛、差し刷毛、面相筆、彩色筆など五十本ほど、彫刀、はさみ、目打ち等、ここは整然と並んでいます。「型染めについて」インターネットを開いてみますと、歴史的には鎌倉末期の藍に浸し染めしたものが残っていますし、数百年という単位で使用できる型紙もあります。同じ図柄を繰り返す、均一性と反復性の面白さが魅力と記載されています。

   
型染め

 彼女は描くものが決まると、トレーシングペーパーにBの鉛筆で、対象物を見ながら基本となる形を描きます。素敵な包装紙等のデザインも、時には拝借しているようです。それを渋紙にカーボン紙を使い写します。その渋紙を彫刀で仕上がりや配色、紙の続き具合を考えながら切り抜きます(肉体的な力を必要とします)。ここまでが型紙を作る作業です。次に布巾(反物を購入し裁断、ミシンを掛けておきます)、シャツ、エプロンなどにその型紙をあてがいます。切り抜いたそれぞれの部分に色を、大部分は摺込刷毛で付けてゆきます。多くの色(樹脂顔料で木、綿、麻、絹、紙用)の中からふさわしい色を選んで、または的確な、ふさわしい色を作りながらの作業です。通常は1度に五枚ほど描きます(型染めの良いところでもあり、疲れる原因でもあるのですが)、それは絵の具の量の問題、また型そのものに色がつくこと、刷毛、筆の手入れ、それらの事を考慮するからです。丁寧に型をはずします。ここからが特に経験と力量が問題になります。面相筆、彩色筆などを使いイメージどおりに仕上げなくてはなりません。一定の技術がないと五枚それぞれが同じ型、同じ絵の具、おなじ刷毛を使っても、全く違うものになってしまいます。また、それも良いのだと思いますが。
  勝手口にある、母専用になっている水道の、水の流れる音がします。刷毛・筆を洗い、手入れの時間です。丁寧に時間をかけての作業で、とても大変な仕事です。このことを思うと、多少興味があっても、始められない方が多いのではないかと思います。
 昼食後夕方まで、出かける日以外は毎日四・五時間これらの作業をしています。そして我が家では、初めてお会いする人には必ずといって良いほど「どうぞ使ってください」とにこやかに、とても嬉しそうに渡しています。

  
 夕暮れ

 スースーと音がします。型染めを終え、家事の始まりです。乾いた洗濯物を取り入れ、たたみます。家族三人分ですから、多くはないのですが実に助かります。「さくら」たちの夕方の散歩から帰ると、風呂場のドアのところにタオルが敷かれています、彼女等の足をシャワーした後、きれいに拭くために使うのですが、母が置いておいたのです。とにかく気が付く人で、いつも周りの人に対して、何かしてあげられないかと考えている人です。姿が見えないなと思い、時計に目をやると七時少し前、NHKの天気予報の時間です。チェックをして、テレビをあまり見ない私達に、伝える役目を担っているのですから。
 夕食が終わり、あと片付けを終えるとお風呂です、「お先に入りますよ」私たちに声をかけ、あがると私たちの顔の見えるところまで来て「おやすみ」と言い、部屋にかえるとご主人に挨拶をしていることでしょう「今日も一日有り難う」と。テレビをつけ、タイマーをかけ、時代劇を見ながらやすむようです。
 
   
皆さんが知らない凄いこと

 彼女は毎週日曜日、ひばりが丘の教会へ礼拝に行きます。いつも決まって、九時十分に家を出ます。仏子駅まで誰かが車で送るとすぐに改札、それを通るとホームです。電車に乗りひばりが丘駅、改札を出るとどなたかが必ず、車で迎えに来てくれます。礼拝が済むと車で駅まで(時々は仲間と食事、いせき、西武で買い物などもしているようです)、そして仏子駅、家族の車で我が家(時にはタクシー券を利用することもあります)。歩く距離、時間はほんの数分です。皆様に助けられて感謝していると、いつも口にしています。毎年一度は先祖のお墓参りと、ご主人のお墓参りのため関西へ出かけます。一昨年は孫に、インターネットで昼ごろ東京駅発の「ひかり」の時刻表と、京都と舞鶴を結ぶ路線をプリントアウトさせていました。京都の友人のところで一泊そして舞鶴の親戚に五泊、そして奈良の先祖のお墓のある霊山寺で長男に会い、車で加古川の家へという旅をしました。東京駅までは孫が付き添いましたが、全て自分でセットします。つい最近までビジネスホテルも利用していました。
 二〇〇九年九月十一日入間ケーブルテレビにて、敬老の日特集として十五分ほどの番組に出演を致しました。それを見た本人の言葉を紹介いたします。
 「ずいぶん年を取っているね、私」です。
 裏を返すと、九十八歳にして心の中ではもっと若々しい、溌剌とした自らの姿を想像していたということです。私たちも母を見習って想像力を上手に使いたいものですね。多くの人は心配事に想像力を使い、その通りの生活をしている、ほんの僅かな人が未来に大きな理想を抱き、それを現実のものとしていると本で読みました。母はいつも「プラス思考」で人生を送ってきたのだと思います。これも元気で長生きの秘訣の一つだと思います。テレビを見終えた瞬間の言葉にそんなことを思い出しました。

   
Kさんとの出会い

 私自身の健康回復と水については「水飲み健康法」でかなり理解できました。そして講演会を聞く機会があり、日本の水道水はヨ―ロッパ諸国では使用が禁止されているアルミニウムを使用し、また、止むを得ず塩素を使っていること、これらは水道の蛇口から水が流れ出る前まででよいのだが、と話し、アルミニウムはアルツハイマーの原因となり、塩素は発癌性物質を発生させてしまうからと言います。環境ホルモンを除去し、また無害化したエネルギー豊かな水が体に入ると、血液がまず変わり視床下部への刺激を与え、自然治癒力が増し、ますます健康になる。これは本来、予防医学なのだと言われていました。今では、水はコンビニで買い求めたり、定期購入したり、ほとんどのスーパーは無料の水を置いています。様々な水、浄水器の中から、水を選んでいただくためには丁寧な説明、体験を伴ったお話、何よりも人と人との信頼関係による、口コミ以外にはないのだと、言われていました。 暮れも押し迫った頃、ある会社の事務をなさっているKさんが工場にやってきました、水のことをお話すると、是非飲んでみたいと言われ二リットルのペットボトルを早速、持って帰られました。しばらくするとKさんは、自分は健康なのでと言い、周囲の方々に水を飲んでいただくようになり、その結果、しばらくして、生水器のある生活を選びました。
 私は自分の健康の回復や、母の健康診断の結果、書物・「水飲み健康法」で得た驚きを工場に仕事で来られた方、我が家に遊びにこられた方々に、夢中になって話していました。そうこうしているうちに、我が家のリビングに集う、多くの主婦達の輪に入るようにもなっていることに気が付きました。人に会うことを苦手にしていて、ひっそりと二階で息をひそめて昼食をとっていた私が、多くの人にすごい水があるよと言い、人々の中でも自然に振舞えるようになっていました。思い、考えもしなかった状況がそこにありました。自分の驚き、感動を伝えたいという思いが、私自身の行動を変えていったように感じられます。またKさんがこれ読んでみてと、次々に、実に変わった(私自身では絶対に手に取らないという意味で)書物を私に持ってこられました、私は読書に時間を費やすというより、ビールを飲みながらサッカー、野球などスポーツを見て時の過ぎるのを待つ、といった生活を送っていました。しかし彼女は、思想、健康、環境など例えば、柳沢圭子著 「生きて死ぬ智慧」・新谷弘実著 「病気にならない生き方」・シーアコルボーン他共著 「奪われし未来」等、私に読むよう提供してくれました。
 彼女は将来、多くの方に癒しを与えるような仕事をする、と決めていると言われていましたので、そのためにたくさんの書物を読んでいるように感じられました。特に「健康と環境」については多くの知識を持ち、実践をされていました。自前の畑には農薬を使わない、肥料には自然に害を与えない、このメーカーのこれを使う、といった具合でした。最近、近所にできたブックオフの常連さんのようです。
 翌年(二〇〇六年)四月彼女が、書物ではなく、NHKが二月に放送した「気候大変動」という番組を、CDに録画して持ってきてくれました。
 世界最大の気候に関するコンピューターが横浜に在って、その予測と最近の出来事との関連性の中から、百年後の地球の姿、日本の気候を推測したものでした。化石燃料に頼った人間社会の行く末、温帯の気候といわれる日本が、もう少しで亜熱帯になっていく姿を示していました。現実に最近の気温、雨の降り方は多くの方がそのように思われるのではないでしょうか。
 書物に戻りますが、人には人生を変える書というものがあると聞きますが、Kさんが持ってこられた「奪われし未来」は私の生き方を変える一冊となりました。
 「あなたは健康で日々を送る生き方の説明書や、地球の使用説明書を持っていますか?」
「あなたは国や自治体、行政が規制しないものは、安全と思っていませんか?」
 二十世紀から今日にかけて、人間が作り出し日常使用している殺虫剤、農薬、洗剤、シャンプー、化粧品等に含まれる合成化学物質の中に、有害化学物質が多く存在し、その影響が
「原因不明の現代病」
「親の子育て放棄」
「家庭内暴力」
「学級崩壊」
「学力低下」
などを引き起こしているとの警告があるのをご存知ですか? 私はこの書を読んで、今の日本の現状、日々の事件報道に接する度に、この書の警告がそのまま現れているとショックを受けております。
 是非、皆様にこの書「奪われし未来」を読んで頂きたいと思います。ゴア元副大統領が書いている「序」には、レイチェルカーソンの「沈黙の春」のおかげで国民の生命を守る事ができたと言い、環境問題の古典と言われている書を高く評価しています。  「奪われし未来」はカーソンの志を継ぎ、問題の合成化学物質が、性発達障害や行動および生殖異常と、いかに密接に関わっているかを裏づける膨大なデータを、一つ一つ丹念に検証した労作であるとし、私達の子孫のために、地球に蔓延してしまっている合成化学物質の影響について、
 「私達一人一人には、知る権利と学ぶ義務がある」
と言われています。その内容を紹介したいと思います。

   
知ってほしい環境ホルモンのこと

@ 「前兆」
 一九五〇年代からハクトウワシ、カワウソ、ミンク、セグロカモメ、セイヨウカモメ、アリゲーター、アザラシ、シマイルカ等の、つがい行動の異常や産卵状況の異常が見受けられた。人においてはデンマークのコペンハーゲン大学での調査の結果、成人男子の精子数が一九三八年に比べ一九九〇年では半減した。
A 有毒の遺産」
 残留性化学物質は世代を超えて、母体で育つ胎児に影響を及ぼす。
B 「化学の使者」
 マウスを使った実験からホルモンのはたらきを示し、図解によってどのようにして残留性化学物質が人体に影響を与え、ホルモンが視床下部、脳下垂体、内分泌腺等に作用するのかを教えてくれます。そしてホルモンバランスが見事に調節されているとき人間は、たった一つの筋書きで機能する見事に統合された有機体となり、ホルモンバランスが崩れたとき、五〇兆の細胞がごたごたとして厄介な肉の塊となる。
 現代に起こっている事実に、生物学的には男性、身体つき、脳は女性、ショッキングな例として、月経のないという女性患者、外見は普通の女性でX・Y染色体(常識的には男)を持ち、精巣を持っている、性発達を導く化学メッセージが阻害されたときに起こる。二〇〇九年八月に開催された陸上競技で優勝した、アフリカの女性選手が声、体つきなど、男ではないかと疑われ、国際陸連が九月調査の結果、この人を「両性具有」の人と発表。世界を驚かせた。
C 「ホルモン異常」 
 医学史上の二大惨事と言われるもの、「大きくて丈夫な赤ちゃんをお望みなら是非DES(ジエチルスチルベストロール)をどうぞ」と宣伝、その後、悲惨な結果をもたらし、サリドマイドによる惨事を報告、成人には影響のない量でも胎児には致命的なものになる
D 「子孫を絶やす五〇の方法」 ホルモン剤DESはエドワードドッズが合成に成功し「脅威の薬」と言われてナイトの称号を与えられ、「奇跡の殺虫剤」と言われたDDTを開発した、パウルミュラーは一九四八年ノーベル賞を受賞するが、それらを人体は、天然ストロイドホルモンと取り違えてしまうことが判明する。過去、半世紀の間に合成化学物質が山のように生み出されてきた、現在、ホルモン作用撹乱物質が自然環境に蔓延している。
E「地の果てまで」
 PCBは電気部品の絶縁物質として一九二九年に誕生、化学的に安定した構造、不可燃性物質、毒性検査はOKとされた。潤滑財、燃えない木材、燃えないプラスチック、ゴム、殺虫剤、ペンキ、ワニス、インク、カーボンレスコピー紙などに使われ、開発されたが、翌年には危険が指摘され、労働者の間に、被害が現れ始めたが使い続けられ、深刻な被害が表面化するまで三十六年間、一九七二年日本で生産が禁止され、一九七六年米国で同様な処置が取られるまで、市場にあふれ返っていた。
 製造開始から五〇年の今(一九九五年)、ニューヨーク州北部で生殖能力検査を受ける男性の精子の中、極上のキャビアの中、ミシガン州で生まれた乳児の脂肪組織、南極大陸に棲むペンギンの体内、東京の寿司屋に並んだマグロ、モンスーンがカルカッタに降らせた雨、フランス人女性の母乳・・・こんな具合である。大半の残留性化学物質と同じく、PCBも地球全体に蔓延している。半年の授乳期間で許容されているダイオキシン・・・。
F 「シングルヒット」
 合成化学物質の中で「札付きの厄介者」と言われる、ダイオキシンの恐怖について、ダイオキシンは自然界において火山の噴火や山火事で発生し、現代の人間のライフスタイルが生み出す汚染物質でもある。殺虫剤、木材用防腐剤に含まれる塩素含有化合物、塩素による紙の漂白、プラスチックや紙の焼却、石油、ガス等化石燃料の燃焼時に発生する。一九六二年から一九七一年にかけて米軍は、一九〇〇万ガロン(一ガロンは約三リットル)を上回る合成除草剤を、北ベトナム軍が潜伏しているとされた熱帯雨林に散布した。
G 「ここにもそこにもいたるところに」
 安全な不活性物質と考えられていたプラスチックは、生物学的に見て活性物質である。プラスチック製試験管からPノニフェノールが検出された。食品包装に使用、水道管、工業用洗剤、殺虫剤、薬用化粧品、合成洗剤等、直接含まれているもの、他のもの(たとえばバクテリア)により分解されてできるもの。様々だが幅広い用途に使われ、十分に研究されている科学物質が、ホルモン作用を撹乱するとことを示した研究だ。これまで地球環境にさんざんまき散らかされ、日常生活とは切っても切れないものとなっている合成化学物質について、人類は驚くほど無知である。
H 「死の年代記」
 ケベック市を流れるセントローレンス川でのことL‐26と言う認識番号を持つベルーガ(シロクジラ名前はプーリー)の死骸を解剖した結果、精巣が二つと子宮と卵巣がある、真性の両性具有動物を発見した。
I 「運命の転機」
 丸太の上で甲羅干しをしている、ニシキガメの体内を周流するエストロゲン(女性ホルモン)は、人の血液中を駆け巡っているエストロゲンとなんら変わるところがない。つまり、動物実験の結果や、自然界での動物の被害は、そのまま人類にも影響する。米国では五〜十パーセントと見られる学齢児が多動症、注意散漫など学習障害を起こしている。また記憶障害やペンをもてない、文字がかけない、といった運動機能障害も多数報告されている。
J 「がんだけでなく」
 長期にわたり、多くの危険性を見落としていたのは、あまりにも「がん」にこだわりすぎていたためではないか、たとえば人が大きな建物を建てている最中に、誰かの仕業で作業をしている人々の会話が寸断されたら、まともなものができるのだろうか、同じように胎児が成長する過程で、ホルモンメッセージが寸断されたとき、様々な障害が起こるのは当然だ。また、環境汚染はすでにもう、個人レベルではなく、人類全体に甚大な影響を及ぼしている。発育が阻害される事で、全人類の潜在能力が蝕まれている。生殖能力が衰退する事で、不妊症に悩む個人の健康と幸福のみならず、数十億年にわたって生命の復刻を支えてきた、繊細な生命システムが侵されている。
K 「わが身を守るために」
 この書を読んで恐怖や無力感を感じたとしても、無理からぬところだが単に、恐ろしいと言って済まされる問題ではない。三十年前レイチェルカーソンは、合成殺虫剤の危険性を予測した。そのおかげで黙示録さながらの悲惨な「沈黙の春」だけは回避できた。そして今、本書で述べてきた新たな危険の到来を防ぐには、内分泌系撹乱物質に関する、科学知識が力を与えてくれるだろう。残留性の高い札付きの化学物質が、先進諸国で生産中止になってから三十年がたっているが、一方で、別種のホルモン様化学物質がいまだに作られていて、新たな汚染を引き起こしている。では、この危機的状況から身を守るにはどうすればよいか?
T1科学研究
U企業による化学物質、製造過程、製品の見直しと政府による新たな環境政策
V各個人による家族ぐるみの自衛策
 個人だけでなく、社会全体で有毒の遺産を減らしてゆくという姿勢が大切なのである、消費者一人一人がこうしたことを、日々心がけていれば、汚染物質の暴露量にも大きな変化が現れ、その効果はさざ波のように、子孫にも及んでいくだろう。
A 水に注意する
 水の成分を知っておく必要がある。上水道の状況をよく調べ、水道水の安全性を過信しないようにする(一九九六年米国)
B 食物に気をつける
 鮮魚は、動物性たんぱく質を含んだ食材としては、もっとも体に良いものの一つだ、けれどもすでに見たように、魚は汚染されている可能性がある。その実例を挙げている。
C 化学物質の使いすぎと暴露を避ける
 こまめに手を洗う事。殺虫剤が安全などと決して思わないこと、生物(動植物)を死滅させるように作られた殺虫剤は、どんなものであれ、思いもよらない害を招く恐れがある。研究によれば、殺虫剤を室内や庭に散布している家庭では子どもや犬に、高い率でがんが発生していることがわかっている。ゴルフ場は、殺虫剤に暴露する危険性の非常に高い場所である。ゴルフ場に散布される殺虫剤の量は農家の使用量の四倍は下らない。だからプレー中は手を口に当てない、ティーは噛まない。
D よりよい防衛策を求めて
 人類および生態系を保護する法律を、充実させていくための基本原理を確認しておく。各国は、環境と健康に関する法律を改定してでも、ホルモン作用撹乱物質による危険を回避する必要がある。以下様々な対策を提言している。
L「不透明な未来」 野生生物に関するデータ、研究所での実験にまつわる体験、そしてごくわずかだがヒトを対象にした研究から見て、問題の化学物質が肉体、精神、行動の各レベルで、人類に有害な影響を及ぼす危険性は十分にある。生殖能力をはじめ学習能力、攻撃性、それに子育て行動や、つがい行動に影響が出る可能性がある。ホルモンメッセージの撹乱が、身の回りの人々に見られる不妊症をはじめ、学校で慢性化している学力不振、家庭崩壊、幼児無視や幼児虐待、社会に蔓延する暴力などと、どのくらい関連しているのか。ホルモン作用撹乱物質が免疫系の機能を蝕んでいるとすれば、人体はますます抵抗力を失ってゆき、医療費もかさむ、人類の未来はどうなるのか。ホルモン作用の撹乱は現代社会に巣くっている病理の元凶といえるかもしれない。混乱した世相の全てが、この種の化学物質に誘発されたと考えるのは単純に過ぎるが、しかしホルモンメッセージを撹乱する化学物質は、人類を人類たらしめている、豊かな可能性を奪い去る力を持っている。
M「無視界飛行」
 生物は環境を変えずには生きていけない。微生物が地球大気の化学組成を変え始めた二十億年前から、このことは少しも変わっていない。・・・二十世紀は人類と地球の関係が新たな段階に入った、まさに「転換の世紀」である。環境の変化を地域規模から地球規模へと変え、科学技術に備わった未曾有の力は、生きているもの全てを巻き込んだ、地球規模の実験といえる。過去五十年間に合成化学物質が、環境や人体の隅々に入り込んでしまったことで、人間の普遍的、標準的生理がもはや定義できない状況となり、汚染を免れている無垢な土地もないし、残留性の高いホルモン作用撹乱物質にさらされていない人間もまた、皆無なのだ。北極圏に生きているイヌイットでさえ汚染されている。まさに極北の地まで汚染されているのである。地球には将来の青写真もなければ使用説明書も付いていない。CFC(クロロフルオロカーボン)が安全な物質として使用され、数十年後に生物にオゾン層の破壊ということで、人間に害を与えたこと、DDTも危険でないものとして使用し続けられ結局、有害物質として製造禁止となった。現在(一九九六年)GNPの四十五パーセントに関わっているといわれる、合成化学物質が、約五十年間に今の状況を作ってしまった。
 今、何より大切なのは地球に住む一人一人がこの問題を真剣に考え論じ始める事だ。会社、行政に任せるのではなく全ての人々が論じるべきだ。我々人類がよりよく状況を理解できるようになった今こそ、もっと用心深くなる勇気を持つべきだ、これこそが子供達の未来を守る親の義務である。
 私は何度もこの書を読みました。何か事件が起こるたびに指摘される、親はどうした、家庭はどう、学校は、地域の人は、と報道されます。しかしそれらの根底に「奪われし未来」が警告をしているとおりの事が、現実に起こっているように感じました。そして私が使っている回帰水について研究されている博士は野菜、果物に付着した農薬は回帰水で除去できるし、畜肉に振りかけた添加物や成長過程で与えられたホルモン、抗生物質も水に漬けることで多くは排除可能である。(惑星通信68)
 輸入果物、特にオレンジや、レモンなどの柑橘類には表面に展着剤によって多量の農薬が塗布されている。これらの柑橘類を二・三時間水に漬けると、水の界面活性作用で展着剤ごと農薬が除去される。ほとんどの食品を水に漬けることで食品に付着している残留農薬や加工食品の食品添加物を排除し、毎日たくさんの水を飲んで体内に蓄積された有害物質を排除して行けば、人体の代謝機能も正常になり、恒常性維持機能、ホメオスターシスがはたらいて健康になるのは当然ではないでしょうか。(惑星通信67)
といわれています。私のこの雑記は「奪われし未来」を読んでいただきたいとの思いから始まっています。お読みいただいて、そして、有害化学物質を取り入れない、近づけない生活をしていただきたいと思っています。

   
同じ年に生まれた星野道夫

 私の娘は二〇〇六年五月にT 君という、ニューヨークで写真を撮ることを職業としている、優しい青年と結婚しました。(二〇〇九年・日本在住)。寒い二月のある日彼が、成田へ送っていった洋子に、一冊の本を託してくれました。写真家でエッセイストでもある、星野道夫の「旅をする木」でした。氷点下五十度にもなるという、アラスカでの美しく厳しい自然と、どのページを開いても自然に圧倒されながらも、そこでの暮らしを楽しんでいる風景、「結婚したら水道のある生活をしたいね」といった会話がふつうに交わされる、アラスカの人々の生活が、豊かに表され感動を覚えました。しかしその文章を私には映像として変換する事は出来ませんでした。そこで写真集を探し、表現されている生活の場面や想像を絶する深いクレバス、神秘の原野、自然に立ち向かう生き物を目にし、星野道夫という人をほんの少し理解できたように思います。彼の言葉の中に「日々生きているということは、あたりまえのことではなくて、実は奇跡的なことのような気がします・・・」この言葉を時々、T君たちと話題にしています。

   
Rさん

 妻が、「今日、Rさんという方が我が家に来ますよ、お風呂に入りにね」と、言います。私にとって初めてお会いする人でした。彼女がこられたとき、私と洋子はテレビの画面を使って流行のウィィでテニス、ゴルフなどに興じていたようで「家族でウィィ」とはと、時々、彼女に面白い家庭だなといわれます。
 彼女は三年ほど前に妻の兄から水を薦められ、その水に触れたときこの水は優しくて温かいと感じたそうです。そしてこの日マリヤがお風呂に入ってみたらと誘い、来られたということでした。彼女は大学を卒業した後、空間デザインの仕事に就きます。某大手テレビ局でセットをデザインしていたのもその一つでした。我々も知っているゴールデンタイムの番組も担当していました。スマップのデビュー前のラジオ公開番組のセットもデザインされ「みんな、可愛かったね」と懐かしそうに話します。ここからが彼女の凄いところなのです。自分がデザインしたそのイメージを、ディレクターを通し、大道具さんに渡すと、そのとおりのものが作られテレビに映され、司会者が・・・というとても楽しい充実した仕事と思うのですが、彼女は辞めてしまいます。理由はただ一つ、そのセットは番組終了とともに、全て粉々にされ、廃棄処分となる、その姿が見ていられなかったからといいます。本来の仕事や人間関係ではなく、木材等の使い捨てについてでした。子どものときからポリシーとして「再生」をいつも念頭において生きてきた彼女にとって、耐えられない状況でした。
 日本古来の釘を使わない建築技法を学び、流木や古材を上手に使い、新しい空間にしてしまう、そういうものを目指していた人間にとっては当然の事かもしれません。そこを退社した後、何を思ったのか北海道へ一人旅に出ます。車に寝袋と少々の食べ物を積み、カーフェリーに乗り込みます。上陸し、多くの人々の思いやり、親切な心に包まれ、夢のような日々に驚いていました。さらに凄いことが待っていました。夕暮れに砂浜を歩いていると、一人の男の人が海に向かってギターを弾いています。波の音に消えそうなメロディに耳を澄まし近づくと、その曲は以前から聴いていたマニアだけに知られている、彼女が大好きなメロディでした。いったい何がセットしたのかこの偶然を、その後二人は東京へ戻り、大きな夢を追いながら、神田川の歌詞のような生活を始めることとなります。今でも、北海道の旅でお世話になった、多くの方々と手紙のやりとり、心の交流を続けていると聞きます。
 そんな彼女はこの数年フォトンベルト(地球そのものが、光子の帯の中に入り、さまざまな影響を受けてしまう現象)のこと等も含め、地球温暖化に伴う、洪水の多発が予想される今日、かって江戸時代より庶民の暮らしを支え、戦後も首都東京の復興を支えてきた西の川の材木、全国でも有数の木材の産地である飯能、秩父を中心とした西川材を利用して船を作ることで、災害から多くの人を守ろうと考えていました。この二・三年、船、船、船といつも頭にあったそうです。考えてみましたら東京都等〇メートル地帯というところが存在し、温暖化による海面上昇一つとっても防災の意味で必要ですし、多くの河川のある東京に海上交通の利用にもなるのではないでしょうか。彼女のパワーは周りを明るくします。とてもほっそりしているとは表現できなのですが、パワフルなお姉さんタイプの女性です。このまま表現してあったらいいのですが本人よりのクレームで変わってしまうでしょう。  彼女が開いている(二〇〇九年五月閉店)「くらしの陽だまり」という、飯能駅近くにあるにあるお店は、以前「幸福の爺さん」が注目を集め、埼玉のラジオ局759(ナックファイブ)に取り上げられていたようです。そこは、地域の多くの若い芸術家さんたちに、作品の発表の機会を与え、アマチュアの皆さんには、親交をあたためるところとなっていました。
 ある時彼女は、三島由紀夫の小説「美しい星」を持参され、飯能から地球環境の改善をするのだというのです。この小説は「十一月半ばのよく晴れた夜半すぎ、埼玉県飯能市の大きな屋敷の車庫から・・・」というくだりで始まる三島由紀夫、唯一のSF小説で、人類を核兵器の恐怖から救おう、ということがテーマになっている作品でした。今、最も多くの人々が危惧している事の一つである、環境の問題を、三島由紀夫が選んだ飯能という地域から同じように、叫んでいこうと。
 また、彼女は龍村仁監督がライフワークとして制作している記録映画、ガイアシンフォニー(地球交響曲)を多くの「くらしの陽だまり」にこられる人に観ていただき、涙を流しながら出演者の一言ひとことに共感していました。地球、人類の未来は、自然を支配するのではなく、調和することで発展してゆくのではないか、(私はそう受け止めたのですが)世界で、日本で多くの実績を残された人々が出演されているものです。一・二番と進み第三番で私は驚愕の出会いをします。零下五十度の中を裸足で自転車に乗ってやって来るビルフラーに合い、アラスカの壮大な自然を相手に飛び回るブッシュパイロット、「旅をする木」にある「アラスカというところは、人間の一生はあまりにも短いという事を感じさせてくれるんですよね」という星野道夫の生き様を目にすることになります。二月に手にした書が、六月に映像として現れてきたのです。
 
   
池林国男氏との出会い

 不思議な事はよく起こりますね。ある日、海賊のような人が我が家にやってきた、九十六歳の母に武者小路実篤著「真理先生」を読んだらいいよと、読書を薦める、母は以前にも紹介いたしましたが、型染めを生涯の趣味としていて、海賊先生に自慢の作品を見ていただいていたのだ。私は「真理先生」を読んだ。そこには全ての人を輝かせん姿があった。私は五十四歳の普通の、あるいはそれ以下の生き方をしてきた人間かもしれない、しかし「真理先生」に接し、池林国男という人に会い、人としての生き方を学んだような気がします。
 池林氏は一九六九年二十五歳の若さで、フランスの三百年近い歴史のあるミレーが受賞し、ゴッホは取れなかったというル・サロン展で賞を受賞された方でした。九十六歳の母の作品を見て、色の美しさを称え、口が悪くて申し訳ないと言いながら、なぜここに同じ大きさのものがあるの、なぜこういう向きしかないの、と思いつくまま批評をしていましたが、母はニコニコしていました、そのはずです。海賊先生は母の耳が遠いことを知らない上、海賊先生自身が、がちがちの大阪弁なので、母が理解するには私達の通訳が必要なのです。その日は構図について上手に伝えました。それ以来、とても広がりのある大きな作品を目にするようになりました。
 翌日、早速、図書館で「真理先生」を借り、まず私が読みました。というのは次に妻が読み、最後には九十六歳の母が読んでいます。(多くの皆さんが一度は読まれているようですが)石や草ばかり数十年、描きつづけている「馬鹿一」なる人物、モデルの女性、画家を目指す若者、白雲、泰山そしてそこに登場する全ての人が、それぞれを輝かせようとしている、武者小路実篤の理想の社会を感じました。何度か読み返しているうちに次の文章に目が留まりました。
 「人間は誰も死ぬものなり、最後に苦しんで死ぬものなり、人間は全て憐れなものなり、さればわれは人間を無限に愛するなり、そして少しでも幸福にしてあげたいと思うなり、ただ思うなり」・・・。 池林氏は「NPO法人日本アーツセンター」の事務局長として活躍され、かつて、知的障害者とともにカヌーを作り、そこでの彼らの成長に親御さん、看護士、サポーターの皆さんと喜び合い、次に、障害のある方々に、ハワイからプロのダンサーを招き、フラダンスを指導していただくという事を企画し実行されました。常識では結びつかない、プロのダンサーと障害のある方、彼は実行しました。そこにはどんなに多くの困難と情熱が注がれたのか、とても私には想像できません。しかし予定のスケジュールが終了する頃には、ダンスを学んでいる健常者も表現の豊かさに感心していたといいます。そして今、「福祉医療機構」より一〇〇〇万円という支援を得て健常者、障害者区別なく青少年育成を目的として、海賊船(埼玉に住む子どもは東京の文化を、東京の子どもは自然豊かなところ飯能の、それぞれの文化を盗み合うというイメージから名付けられました。)を作り、来年十月、荒川、隅田川を十八キロメートルに亘って、大きなイベントを繰り広げながら下る、という企画を実行しています。今九月半ばですが船体をさかさまにした状態で船底を製作中です。正式には「ドリームシッププロジェクト」と名付けられ七月二十九日に埼玉県の副知事、飯能市長、厚生省や国土交通省の方々、この事業に参加される子供達、親御さんなどで、加冶中学校のブラスバンド部の華やかな演奏を中心にオープニングセレモニーが行われました。
 七年前より「陽だまり」に見事なパッチワークを展示するようになった、奥様がいました。とても上品で穏やかな方です。船、船、船、と言っていた「陽だまり」のオーナーRさんと海賊先生が合体します。そのパッチワークの奥様はそうです、海賊先生の奥様でした。
 使い始めて二ヶ月、自らの体調の回復を実感し、凄い水に出合った喜びを人に伝えるようになったRさんは、水をその事業に参加される子供たちに飲ませてあげたいとの思いで、まず責任者の池林さんに話します。そして私達は海賊先生に出会う事となります。 我が家から車で五分ほどの場所に「子供たちの海賊船工房」があり六月半ばより毎週土曜日に、水を運んでいます。
 オープニングの日は百五十人分の食事を用意した事もあって、二百リッター以上使いました。通常の土曜日は百二十リッターぐらいです。
 その工房にIさんという七十七歳の青年がいます。これは表現として正しいと思います。普段は車で、時には二百五十CCのバイクで、横浜から二時間以上かけて、この事業の成功のためにと通われています。誰からも好かれる人で、いつも周りには笑顔が絶えません。あるときの会話です「戦時中、私は背が小さかったから、乙種合格で海軍に行ったんだ、訓練のとき、走れ走れと追いまくられるんだよ、だけど渡された靴が長靴(ちょうか)なら良かったんだけど半靴だもんで脱げちゃうんだよな、サイズはでかいし、まるでポパイがブルータスの靴を履いてるようなもんだ、さらに腰には銃剣があるんだよ」軍服に身を包まれ、巨大な靴を持ち、銃剣を押さえ走るIさんの姿、思わず笑顔が、さらに手の傷をさして、「これはね、訓練中相手の銃剣が当たったんだよ、よせばいいのに若気の至りって言うやつで、俺が前へ出過ぎちゃったんだ、オレは訓練も真面目にやっていたんだよ」身振り手振り、どんな事も楽しく話してくれます。
 「星野道夫仕事」の文章より 、引用致します。
 「雪の世界の美しさは、地上のあらゆるものを白いベールで包み込む、不思議さかもしれない。人の一生もまた、歳月の中で降り積もり、辛い記憶をうっすらと覆いながら、過ぎ去った昔を懐かしさへと美しく浄化させてゆく。もしそうでなかったら老いてゆくことは何と苦しいことだろう」
 その青年は停年を、ある県の行政を監督する立場の幹部として迎えます。
 本人曰く「私は学校も行ってないし、運転手として入ってよくあそこまでいったな、勉強したよな、独学で・・・」精神の輝きを滲ませています。「これ見てよ、こんなにきれいになっちゃったよ」袖を巻くり上げ、腕を見せてくれます、血液の病気で血管が破れ易く、ちょっとした打ち身でも、すぐに周りじゅうが紫色になってしまいます。私達が水を工房に届けるようになって以来、毎週十五リッターほどタンクに詰め持ち帰ります。翌週、お会いすると直ぐに「こんなになっちゃたよ」と、どんどん変わっていく腕を見せ、嬉しそうに「水頼むよ」といわれます。あるとき大きな声で子供達に「休憩」と声をかけ、「体に良い水をたくさん飲みなさいよ」と言っていました。三ヶ月が経過し普通の七十七歳の腕になっています。これからも益々お元気になられ、工房の技術的な中心として御活躍されることと思います。
 ドリームシッププロジェクト(海賊船の事業の正式名)はオープニングから約二月を経過し、制作スペース入り口の一方にはカヌー工房と古材が彫られ、メインにはPIRATSUと流木で書かれ、触れるもの見るもの、わくわくする雰囲気を漂わせています。飲み水を提供してくれている事のお礼に、給水台を作るからいったいどんな水なのと聞かれ、「山に降った雨が岩盤を通過する事でエネルギーを付加され、さらに深く浸透し浄化される、その水が再び地表へと湧き出す、豊かな自然の恵みに満ちた水」と説明しました。それをイメージし、切り株のうけ台と流木の文字、水の文字は跳ね上がってエネルギーをあらわす、「作品」が池林さんにより作られ使われています。池林氏、OさんHさんYさんRさんはじめ、関係者の燃えるような情熱と、献身的な行動により来年、夏、参加者数百人という壮大なスケールで、多くの感動を与えながら海賊船が隅田川を下ります。

   
ニーチェを言語で読む人

水のことを聞きたいという、あるお店のマスターを堀さん(妻マリヤの兄)が連れてきました。一月ほど前より堀さんが健康のためにと、水を運び飲んで頂いている方でした。初対面ですので恐る恐る挨拶を交わし、私の一連の講演(水と環境ホルモン、ほとんどこの雑記の内容)を聴いていただきました。十分程でしたか、終えると雑談になりマスターの世界に、とてつもなく深く広大な空間に案内してくださいました。「美しい星」について三島由紀夫は空飛ぶ円盤を観察する会にも参加していて、非常に興味を持っていたし、その頃(昭和三十五年)同じような映画を観てるんだよな三島は、どうも怪しい、「パクッタンじゃないかな」と言います。そして三島は蟹という文字を見るのもいやだというほど大嫌いで、それもそのはず、彼は腕が細くて毛深くて、毛蟹といわれていたそうです。肉体的にはとてもほっそりしていて強くなろう、強く見せようとの心がはたらいていたのではないかそして・・・を尊敬していて・・・芸術至上主義・・・と話が進んで行き、以前、三島由紀夫と日本を代表する数学者・・・氏との会談をセット、編集し、「それなりに売れたんだよな」と平然と言われます。日本、西洋、ロシア文学、宗教、音楽など全て「前記の三島レベル」で、なんの知識もない私達に、実に愉快にお話してくださいました。しばらくしてお店に伺いました。ニコニコして迎えられ、私達は飲み物と鰈(かれい)、焼き鳥を注文し、見ていると彼の肉体労働は炭を熾しただけでしたが、おそらく開店前の準備は彼の仕事のように感じました。 聡明で会話の楽しい奥様に、上手にコントロールされている姿は、彼の我々が想像もできない知性の輝きをいささかも減じることなく、生き生きとあらわされ、我々を心地よい彼の世界へ引き入れてくださいました。もう一つPというお店のママさんがいらして「三島レベル」さんと奥様、それにPさん、どんなことも愉快にまるで童話の世界に漂う私がいました。Pさんの歩んでこられた味わいのあるであろう人生を、お聞きたいと私達は話しております。

   
N先生

 N校長と私の携帯電話にお名前を登録した方がおられます。やはりRさんのお知り合いで、飼われているワンちゃんの具合が悪く、彼女に薦められ、私たちの水で薬を与えたところ「あっという間」に変化が現われ、驚いて、早速ご夫婦で水についての話を聞きに来られました。私はRさんよりNさんについて、今、教職につかれていて、元サッカーY・Vの選手だった、と聞いていましたのでテーブルに着くなり矢継ぎ早の攻撃を仕掛けました。私は浦和レッズの熱烈なファンです。試合のある日は、テレビの放送を新聞の番組欄で地上、BSで調べ、見つからないときは、インターネットでもどこで放送するか確認します。埼玉スタジアムが西武沿線になぜ作られなかったか残念でたまりません。ご想像のようにN氏との会話は約一時間半、日本代表、浦和レッズ、世界のサッカーについてお尋ねしている間に過ぎてしまい、奥様が、何か聞きましたか?と声をかけられましたが、その時間は全て私の質問に答えていたNさんでした。私は何時の日か必ずNさんの解説で、レッズVS V・K の試合をご家族とともにスタジアムで観戦したいという夢を抱きました。ただ、V・Kは今二部リーグにいますので少々時間がかかるかも知れません。ご夫婦で来られた本来の目的は、妻と奥様との会話により、ある程度達成されたようでした。
 しばらくしてN氏ご夫妻が、博士の講演会を聞きに行くことになり、駅で待ち合わせ、歩きながらサッカー以外の始めての会話をしました。教員をなさっていると聞いていた私は「何を教えていらっしゃるのですか」と、「何も教えてないんですよね」と静かに返します。おかしなことを言う人だな、何も教えていない教員とは?そう、校長先生だったのです。「校長をやっているもので雑用ばっかりなんですよ」と自らを飾らず、自然に淡々と生きてこられたN校長を、益々尊敬する気持が湧いてくるのを感じました。奥様はご主人をとても大切にされているのが伝わる方で、いつも大事な決断を要する場面では主人が、といわれ、ご夫妻がとても多くの会話をなさっている事が感じられます。いつも来られる度に、家庭菜園で取れた野菜を手に、「食べてみて」、「召し上がっていただけますか」、と穏やかな口調で言い、「お気に召しますかしら」と育てている花を優しく包んで手渡してくれます。そして昨日、水のある生活を選ばれました。Nさんより一枚のFAXを手にしました。「環境、食物、平和について共に学びませんか」というお知らせでした。ご夫妻のお人柄がうかがわれます。


トップページへ戻る
体内・胎内  情報
     
寸断の実態