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幸福の報告書
 私は20歳の頃、酒の飲みすぎをはじめ、不規則なだらしのない生活がもとで、急性アルコール中毒をおこし半月程、入院しました。ある日仕事をしていると急に動悸を感じ、脈拍がドンドン早くなりそれとともに倒れてしまうのではないかとの不安に襲われ、その思いがまた血圧を上げいっそう不安はつのる、そして救急車にて病院に運ばれました。その時の医師と家族との会話は父の死因が狭心症によるものでこれ以上脈拍、血圧が上がると・・・とのやりとりでした。週間後、退院することができたのですが不安神経症が後遺症として残りました。症状は多くの人が集まる場所、映画館、野球場、電車、航空機等には入れませんし、乗れませんでした。特に高速道路の運転はできなくなりました。高速以外のことは数年でさほど感じなくなりました。しかし高速道路、トンネルについては助手席にいても気を失うのではないかと凄く不安を覚えるほどでした。18歳で免許を取得しポンコツを買い、少々の事故もありましたが普通の若者のように高速道路の運転の経験もあります。しかし、あの日以来30年間、運転をすることはできませんでした。自分に対し運転で一番安全なのは高速道路なんだと言い聞かせながら、何度も、何度も試みたのも事実です。ICに近づくと心拍が早まりやっぱり止そう、今日は大丈夫そうだと思い、切符を取り20メートルも動くと脂汗が滲んでくる、その現象の繰り返しでした。条件反射になっていました。 
 私は電気制御盤を製作する仕事をしていますので盤を納めると、ほとんどの場合古い既存のものとの関連や納めた製品そのものの改造があります。私でさえ北は北海道上川から南は九州熊本、1度は中国広州まで行きました。しかし高速の運転はだめでした。現地改造の仕事が決まると場所を聞きます。本当に近いところ以外は全て二人で行くことにします。一緒に働いているEさんと行きます。一人分の売上を二人で分けることもしばしばありました。Eさんは小学校の時、クラスは違うのですが学校を代表するソフトボールチームの彼はピッチャー私はキャッチャー以来の付き合いで、初めて電気の仕事を教えてくれた人でもあり、知り合って44年にもなります。現地へ行くとき高速は彼が運転し、下りると私に代わります。ある年など半年の間、土曜、日曜と毎週現地へ行った事もありました。私の状態を理解していた彼はどういう状態でも文句一つ言わずに運転をしてくれました。彼には本当に感謝しています。彼のおかげで今の私の生活があります。また、私が幾度となく高速道路の運転に挑戦していた姿を知っているのも彼です。
 2005年月ニュヨークから洋子が日本で休みを過ごすために帰国しました。数年前に愛犬「さくら」(コーギー)を飼い始め、空港へはその「さくら」を連れ車で迎えに行くことになっていました。マリヤの運転で圏央道、関越、外環、そして常磐道の柏で高速道路を下り運転を私に代わり、一般道で成田へというルートです。「さくら」のために三芳SAでおっしこ休憩、千葉の大きな公園、手賀沼では食事を与え散歩をします。帰りも同じようなわけですから私たちにとって1日がかりの一大イベントです。愛犬「さくら」にとっては迷惑なことだとわかった上でのことなので
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